第9回研修会 講演(2)要約
「新町堺筋から大沢越堺大坂道について」 槇野久春氏
・「中家文書調査報告書」(五條市文化財調査報告書第13集)(五條市教育委員会編 平成26年刊)の巻頭図版に掲載された「馬借通路絵図」を参考にして、新町松倉講では新町堺筋から大沢越堺大坂道について踏査した。(以下の図は平成28年度 五條市立五條文化博物館 春季企画展「五條の絵図をよむ」のチラシより)
・「馬借通路絵図」は、紀州橋本の馬借所と五條、須恵、新町村の馬借所との縄張りを巡る争いが訴訟となり、江戸の幕府評定所に提出するため、五條村他が作成したもので、製作は1724年頃と推定される。裁許の結果、和州における河南街道から加名生(あのう)村(現五條市西吉野町)に向けての荷駄は、五條の馬借所の管轄内とされ、以後この判例が引き継がれた。
・この絵図には、馬借の道が赤線で描かれており、新町の中町から大澤寺を経て県境の行者杉に向かう道が赤線でしっかり描かれている。紀州、河州と和州の境となるところには「大沢越道堺大坂道」と墨書されており、堺大坂に通じる道筋との意であろう。(これは上の古絵図の新町村を中心に拡大したもの)
・ 一方、新町村家別明細絵図(安政6年(1859)個人蔵)には、
新町中町から大沢越えに向かう道筋にやはり「堺筋」との墨書があり、両絵図で全く同じ字体であった。以上より、堺筋は江戸時代の中期には、堺に向かう、堺に通じる街道筋として五條の人々に認識されていたことが判明した。
仮に新町中町(現中之町)から大沢越え行者杉に至る街道筋を「堺筋」と呼ぶこととして、その堺筋の道筋は、現在にあってはどこを通っていたかを、明治と昭和の地図、最近の住宅地図等を参考に検証した。
・五條村からの道筋は五條代官所(現五條市役所)を過ぎた辺りから現在とほぼ同じルートを通っており、旧五條中学校前(現中央公民館前)からごんべ坂を登り牧野農協角で右折する道である。
・新町中町から向かう堺筋は、絵図とは若干異なり、安井寺の西で寿命川を一度右岸に渡り、600m程北で再び左岸に渡り戻すルートとなっている。明治と昭和の地図はいずれもこの道筋であり、寺尾の台地(河岸段丘第5段)に登ってからは、ほぼ北に向かって真っ直ぐの道である。
(寺尾より北北西方向 中央に神福山を望む)
この先の狸峠の麓を直進
しかし、現在道筋は狸峠の麓を過ぎた辺りでほどなく失われている。
僅かに残る畦道を200mほど北に辿り、右手土手を上ると五條村からつづく堺筋に合流することになる。(土手から道を見下ろす)
なぜ、道が失われたかは不明だが、この辺りでは寿命川の水面と道との高度差が少なくなっており、洪水等で道が失われた可能性は大いに考えられるところである。
・どのような人、或いはどんな物資が往来していたのかを検討するには、途中の大澤寺(だいたくじ)がキーポイントとなるので、まずはその歴史を紐解く必要がある。
(大澤寺参道)
(大澤寺庫裏)
・神福山 青龍院 瀬之堂 大澤 寺(だいたくじ)の開基は今から1300年程前、役行者(小角)が扶桑第一の行
場としてこの地に草堂を結び、薬師如来を勧請して朝夕祈願の浄域としたことから始まり、弘仁年間(810〜
824)弘法大師がこの地に錫を止められ、伽藍や僧坊などを建立真言密教の霊場とされた。
・南北朝時代は仁和寺の別格本山となり広大な寺域には塔頭寺院が12宇あり、南大門は15丁ほど麓にあった。後醍醐天皇をはじめとして南朝皇族や楠公一族等南朝縁の寺院であった。
・江戸時代には紀州徳川侯の祈願所となり毎年正月高野山大先達により柴燈護摩法要が厳修された。本尊薬師如来(薬師瑠璃光如来、藤原時代初期)は楠一木作り「眼の薬師」として信仰され、堺、大坂からの参拝者も多かった由。
江戸時代の掛軸「大澤寺境内図」は往時の大澤寺の堂宇を写したものである。
(南大門に向かう旅人)
・新町の堺筋から堺大坂への道はまさにこの大澤寺(金剛和泉山系の南側の中腹(標高380m付近))を通っており、古くは宿坊もあって大事な中継地でもあった。(この地は二本の断層が交わるところにあり、このために独特な地形が形成されたと考えられる。)背後の山からは湧水が豊富に涌き出ており、日本一の行場として開かれたのも頷ける土地柄である。その浄水は眼病治癒に効ありとされ、本尊薬師如来(薬師瑠璃光如来、藤原時代初期)は「眼の薬師」として信仰されている。堺、大坂からの参拝者も多く、堺筋は参詣の人々の通路として大いに賑わったとのことである。
・『大澤寺境内図』には、子連れ夫婦と覚しき旅人や参詣の人々、牛の背に荷を乗せて引く人、天秤棒で荷物を運ぶ人、行商人風情の人など多数の人が描かれている。この絵図を見る限り、行商人や参詣人など人の往来はあるも、車馬の姿は無く、傾斜の厳しい大沢越えでは車馬による荷駄の運搬には向かなかったのではないかと考えられる。
・新町松倉講では平成29年4月29日、講の5人と案内していただいた阪本勲さん(上之)の計6人で大澤寺から行者杉まで登り、さらに神福山から千早峠までダイヤモンドトレールを辿ってみた。
(行者杉近くより五條、木の原を望む)
(神福山頂上の高天山佐太雄神社)
(千早峠より上之、岡に至る道を下る)
・その結果、大澤寺から最初の登りは高度差約250mの急斜面で、最大の難所であった。それに較べ、千早峠からの下降道は尾根筋に近く、傾斜も比較的緩いため、物資の運搬はよりたやすい道と考えられた。
・大沢越えも千早越えもともに大阪、堺に通じる道であり、目的地から見ればほぼ同じルートである。本当に2ルート必要があったのかと素朴な疑問がでるが、結論から言えばこの2つのルートは、歴史的な意味や用途により、やはり必要であったと考えたい。まず、大澤越えは主に大澤寺の参詣の人が利用したものであろう。大澤寺は1300年以上前に開かれた古刹である。お寺の裏山は急峻で特に最初の高度差200m余はつづら折れとなっている。歩行者ならともかく、車馬による物資運搬を目的として整備された道とは考えにくい。これに引き替え千早越えは尾根筋に沿った道である。傾斜も比較的緩やかで、車馬の通行はより容易であったと考えられる。当初参詣道として大沢越えが利用され、後に商品経済の発展、人物資の往来が増えるにともない、千早峠が整備されたのではないか。現在まだ推論の域をでないが、今後そのような見地から知見を集めてみたい。













(大澤寺本堂と青龍池 5月5日花会式)








